努力の末に出場した甲子園で負ける。そのショックは計り知れない。しかし球児たちの人生はまだこれから。その悔しさ、その無念は、無駄にはならない。元球児たちはそれを、身をもって知っている。

仕事に悩むと思い出す

「サヨナラホームランを打たれた瞬間は、いまでもよく覚えています。不思議と悔しさはなかった。飛んで行くボールを眺めながら、これで解放されるんだな、という気持ちでした」

37年前の敗戦をそう振り返るのは、かつて愛知・東邦高校の1年生エースとして甲子園を沸かせ、「バンビ」の愛称で親しまれた坂本佳一(52歳)だ。

'77年夏の甲子園、東邦は下馬評を覆して決勝まで勝ち進んだ。東洋大付属姫路との決戦は投手戦になり、9回が終わって1—1の同点。延長戦に突入した。

そして延長10回の裏、1年生の坂本は疲れから二死一、二塁のピンチを背負い、サヨナラ3ランを浴びた。

あと一歩で優勝を逃したにもかかわらず、解放されたと思ったのはなぜか。

「疲れていたんです。当時、私は15歳でした。甲子園に来てから3週間。親元をあんなに長く離れたことはなかった。自分で洗濯をするのも初めてでした。初体験の連続を何となく面倒くさいなあと思っていて、ようやく終わったなと」

だが本人の気持ちとは裏腹に、甲子園が終わっても、坂本は「普通の高校生」には戻れなかった。地元の愛知に帰った坂本を待っていたのは、想像を超える「バンビフィーバー」だった。

「それからは応援してくれる人の期待に応えようと必死でした。でも私は、毎試合相手を完封できるような投手ではなかったんです。それは自分が一番わかっていた。自分で自分が可哀想になりました」

自分の実力と、注目の大きさとの差—。それに悩み続けた坂本は力を発揮できず、再び甲子園のマウンドに立つことはなかった。

「ただ高校時代の経験は、決して無駄ではなかった。私はいま、鉄鋼を扱う会社でサラリーマンをしていますが、仕事に悩むとあの頃を思い出すんです。取引先との交渉や、部下の指導など、サラリーマン人生は難しいことばかり。でも私は、人生には良いことも悪いこともあると、高校時代に身をもって知りましたから」

地元の期待や、予選で敗れた相手の無念を一身に背負って高校球児たちが戦う、甲子園。しかし最後まで勝ち続けられるのは、わずか1校だ。その陰には、涙をのんだ球児たちがいる。彼らは敗戦から何を学ぶのか。真夏の激闘の記憶は、後の人生にどんな影響を及ぼしたのだろうか。

バンビ坂本同様、アイドル球児として重圧に苦しんだのは、'89年の夏、秋田経法大附属の1年生エースだった中川申也(41歳)だ。秋田経法大附属は準決勝まで勝ち進み、あどけない顔立ちと負けん気の強さから、中川は全国的な人気を集めた。

中川が語る。

「甲子園は憧れの舞台で、そこに立てただけで楽しかった。ただ、天狗にはなりましたね」



二度と後悔しない



その後、中川にとって、甲子園は憧れではなく、絶対に出場しなければいけない大会になっていった。

「忘れられないのは、2年のときの夏の地区大会の決勝。2—1でリードして迎えた9回裏、甲子園が頭をよぎったんです。そこから連続フォアボール。すると心臓の音が聞こえてくるほど緊張してきて、マウンドに膝をついてしまい、タイムを取った。先輩から発破をかけられて何とか投げ切り、甲子園への切符を手にした。勝った瞬間、肩の荷が下りた気がしました」

安堵からか、その年の夏は3回戦で横浜商業に敗北。そして最後の夏になった'91年は、甲子園に行くことすら叶わなかった。

中川はその後、'92年にドラフト5位で阪神へ入団。しかし怪我もあり、一軍での登板のないまま、わずか4年で引退した。

「いまは妻の実家の建築会社で働きながら、週に1回野球教室で小中学生に指導しています。そこで言っているのは、『笑顔でやれよ!』ということ。ガチガチになってしまったら、もうダメですから。好きで始めた野球を嫌いになるような想いは、子供たちにしてほしくないんです」

'97年、夏の甲子園1回戦、熊本・文徳高校と千葉・市立船橋の対戦は歴史に残る大逆転劇となった。

3回表を終わって、9—1で文徳がリード。しかし3回の裏に市船は4点を返すと、続く4回にも2点を追加。そして6回の裏、一挙に10点を上げる猛攻を見せ、逆転勝ち。8点差からの逆転は、いまも残る甲子園の最大得点差逆転記録になっている。

このとき、文徳の中堅手として出場していた森田崇智(35歳)は、いまもあの試合を鮮明に覚えている。

「パニック状態でした。チーム全員が、『誰か何とかしてくれ』と願っていた。6回裏の守備が終わってベンチに戻ると、もう気持ちが萎えてしまって、取り返すぞという気力は残っていなかった」

猛特訓の末、やっと出場した甲子園。それが1回戦で、しかも気持ちで負けて終わってしまった。後悔は、してもしきれなかった。

「最後は7点差をつけられましたが、その過程で競った場面があったはず。そのとき、なぜ踏ん張れなかったのか。どこかで出場したことに満足していた。何としても勝ちたい、その気持ちが足りなかった」

大学まで野球を続けた森田は、卒業後、東京の企業に就職。しかしプロへの夢を捨てきれず、社会人チームの練習に参加し、プロテストを受けた。

「結果は不合格でしたが、甲子園のときのように、悔いは残したくなかったんです。現在は母校・文徳で教鞭を取りながら、軟式野球部の部長をしています。『全国に出よう』ではなく、『全国で一度は勝とう』、そう指導しています」

上には上がいた

後悔をバネにした球児たちがいる一方で、甲子園で限界を超えるまで戦い、敗れていった選手もいる。悲劇の準優勝投手、沖縄水産の大野倫(41歳)を覚えているだろうか。

'91年の夏、大阪桐蔭との決勝は、4連投となった。大会前から痛めていた肘は、すでに壊れていた。栽弘義監督から毎日マッサージを受け、痛み止めを打ちながら、大野はマウンドに上がった。結果は8—13。大敗だった。

「決勝はただ球を投げているだけで、ピッチャーとしての体はなしていませんでした。いまでも、あの決勝を万全の状態で投げていたら、と思うことはありますよ。でもあのときは、甲子園という人生の大一番で燃え尽きたい、そう思っていた。私は自分の意志でマウンドに立ったんです」

大野は大学で野手に転向し、'95年に巨人へドラフト5位で入団。ダイエーに移籍後、'02年に引退した。

「いまは九州共立大学沖縄事務所長をしています。そのほかに、ボーイズリーグの指導者もしている。自分が故障したこともあり、子供には連投はさせないようにしています。

ただ僕は、『無意味に思える鍛錬に意味がある』とも信じている。厳しい状況を共有して初めて、仲間と信頼関係が生まれるんです。僕はそのことを高校で知った。それを子供たちにどう伝えていくか。試行錯誤の連続です」

古豪横浜商業のエースだった三浦将明(48歳)は、何度も甲子園で勝ち進みながら、その度に時代を代表する「怪物」たちに敗れてきたという、稀有な経験の持ち主だ。

三浦は'83年の春と夏、連続で決勝まで勝ち上がった。1度目の決勝は、水野雄仁率いる池田高校に優勝の夢を阻まれた。

「水野には0—3で完封負け。あんなボール、今まで見たことがなかった。でもこの負けで僕らは変わりました。うちのメンバーはみんな『サボりの天才』で、誰一人まじめに練習をする奴はいなかった。それが努力をするようになった。雨で練習が休みになっても、みんな隠れてバッティング練習をしていましたね」

しかし夏の決勝では、桑田真澄・清原和博ら当時1年生だったKKコンビのPL学園が立ちはだかった。再び0—3の完封負け。どんなに努力を重ねても、ときには敵わないことがある。「怪物」に敗れ続けた三浦ほど、それを思い知らされた選手はいないだろう。

高校卒業後、ドラフト3位で中日に入団し、'90年に引退。大手運送会社に勤務した後、現在は愛知県のスポーツ用品店に勤めている。

「甲子園の決勝の舞台に2度も立った。それはいまとなっては良い思い出です。ただ、そう考えられるようになったのは、30歳を過ぎてからです。プロをクビになって、周りに人が全然いなくなって、『俺は何でこうなった?』と、人生を見つめなおす時間ができた。そのとき高校時代を振り返り、仲間と共に戦った経験が支えになったんです」

当時は史上最強と呼ばれ、三浦の「Y校」を一度は叩きのめした池田高校も、同じ夏にやはり「KKコンビ」によって敗戦の苦さを味わった。

'82年の夏に甲子園を制した池田は、'83年の春も連続優勝していた。当時セカンドを守っていた金山光男(48歳)が振り返る。

「春からの半年間は、異様でした。普段の練習から、テレビ局が3局くらい来て、僕らのドキュメンタリーのためにカメラを回しているんです。水野を観るために観光バスが停まっていることもあった。たかだか18歳のガキが、大人と接して、見られて……。調子に乗るなというのは無理です。蔦(文也)監督は事あるごとに声をかけ、僕らが勘違いしないようにしてくださいましたが、当時は気づくことができなかった」

そんな状況で優勝できるほど、甲子園は甘くはなかった。

「KKのことは、正直舐めていました。所詮1年だろ、と。油断、驕り、慢心、すべてありましたね。しかしいざ試合が始まると、水野が4点を先制された。焦りました。それまで追いかける展開の試合をしたことがありませんでしたから。自慢の打線は淡白な攻めを繰り返し、あっさりと負けてしまいました」

まさかの敗北に、呆然とする池田ナイン。しかし試合後、蔦監督が語ったのは、「この子らの人生のためには負けて良かった。それも水野が打たれる形で……」という言葉だった。

現在、都内でシステムエンジニアとして働く金山は、いまになって、その言葉の意味がわかるという。

「目上の方との接し方、後輩への指導の仕方など、社会人は様々なコミュニケーションが求められますよね。そういうとき、勝ちっぱなしのまま野球を終え、驕った人間にならなくて良かったなと思うんです」

'61年の夏にも、「最強」と呼ばれたチームはあった。元巨人の柴田勲率いる法政二高。'60年の夏の優勝に続き、'61年の春も優勝。投打とも圧倒的な力があった法政二高の目標は当然、3季連続の全国制覇だった。

しかしその野望は、準決勝で、浪商の怪童・尾崎行雄に打ち砕かれた。

法政二高で右翼手を務めた五明公男(71歳)が語る。

「尾崎とは前年の夏、同年の春に続く3度目の対戦だった。彼のボールには、『もう負けたくない』という気迫がこもっていた。元々速かったボールがさらに重くなっていた。私はそれまでバントを失敗したことがなかったんですが、その試合で初めて失敗したのを覚えています」


負けてよかった。「目上の方との接し方、後輩への指導の仕方など、社会人は様々なコミュニケーションが求められますよね。そういうとき、勝ちっぱなしのまま野球を終え、驕った人間にならなくて良かったなと思うんです」

'61年の夏にも、「最強」と呼ばれたチームはあった。元巨人の柴田勲率いる法政二高。'60年の夏の優勝に続き、'61年の春も優勝。投打とも圧倒的な力があった法政二高の目標は当然、3季連続の全国制覇だった。

しかしその野望は、準決勝で、浪商の怪童・尾崎行雄に打ち砕かれた。

法政二高で右翼手を務めた五明公男(71歳)が語る。

「尾崎とは前年の夏、同年の春に続く3度目の対戦だった。彼のボールには、『もう負けたくない』という気迫がこもっていた。元々速かったボールがさらに重くなっていた。私はそれまでバントを失敗したことがなかったんですが、その試合で初めて失敗したのを覚えています」

負けてよかった。今そう思う

負けるはずがない、そう思い上がっていた法政二高ナインは敗戦後、宿舎までのバスのなかで号泣した。

「いまも柴田ら高校の同期とは年に1~2回集まっているんですが、そのとき必ず話すのは驕りがあった、ということ。私たちが3年のときに、厳しかった恩師の田丸(仁)監督が退任なさって、みんな練習しなくなった。だから負けてよかったんです。もしあれで勝っていたら、とんでもなく勘違いしたまま、大人になっていました」

五明はその後、法政大学の野球部で監督になり、江川卓らを指導。監督を退任した後も法政に残り、スポーツ健康学部の教授を勤め上げた。

「甲子園に出ていなければ、まったく別の人生を送っていた」

そう言い切るのは、'80年に甲子園に出場した、東京・国立高校の元捕手・川幡卓也(51歳)だ。エース・市川武史と共に、川幡はチームの中心選手だった。

都立勢初、それも「超」がつく名門進学校である国立高校が、甲子園に出場する。判官びいきの高校野球ファンは、こぞって国立を応援した。甲子園は、国立がストライクを取っただけで大歓声があがった。

しかし、1回戦の相手は前年の覇者・箕島だった。力の差は歴然で、5—0の完封負け。国立の挑戦は初戦で終わった。

川幡は卒業後、一浪し、東大へ進学した。

「実は当時、東大にいこうなんて思っていなかったんです。そんなに成績がよくなかったですから。でも注目を集めて取材されるなかで、志望校を聞かれるわけです。『まあ、国立大ですね』なんて答えてたら、『じゃあ東大か』と聞かれて、『行けたらいいですけどね』と言ったら、『東大志望』と報じられてしまった。それで乗せられて、東大を目指したんです。あのとき甲子園に出ていなければ、絶対に東大は受けていなかった」

現在川幡は、大手広告代理店の部長を務める。高校時代の仲間とはいまも年に1~2回集まり、当時の思い出話をするという。

「よく話すのは、練習や合宿のこと。甲子園に出るために必死にした努力が、いまもみんなの人生の財産になっているんです」

高校時代に最強と言われながら敗れ、その後長きにわたり指導者という立場にあった前出の五明は、甲子園に対し、ある考えを持っている。

「甲子園には神様がいて、両チームのどっちがより努力してきたかを、神様が見ているように思えるんです。あの緊張感のなかで勝つには、野球の技術だけでなく、人としての強さが必要。高校生なりに、まじめに努力を重ね、人間として成長してきたか。それを試されていると」

高校球児たちの「その後の人生」は、まだこれから。悔し涙を流した彼らもいつの日か、負けに意味があったことを知るだろう。

(文中敬称略)

「週刊現代」2014年9月6日号より

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