【4月15日】1995年(平7) 



 【阪神7-2巨人】500本、1000本、1500本…。メモリアル安打は決まって本塁打で花を添えてきた。巨人-阪神2回戦(東京ドーム)の6回、阪神・久保康生投手から左中間へシーズン2号本塁打を放った巨人・落合博満一塁手は、過去の例にならって通算2000本安打をホームランで決めた。41歳4カ月、史上最年長での大台到達だった。



 「きょうあたりは打たなきゃな。昨日、ホームラン打たなかったら息子に“パパはウソをついた”って泣かれちゃったよ」と試合前に話した背番号6。狙った、とは言わなかったが、1発で決めたいと言う気持ちは強かった。5万5000人の観衆から拍手喝さいを浴びて生還した落合は、愛息にお土産で持って帰ると約束したホームランを打つとプレゼントされる「ジャビット人形」をスタンドに投げ入れず、大事そうに小脇に抱えてベンチに戻った。



 そんな家族思いの“かわいい”落合だが、2000本安打で入会資格が与えられる「名球会」入会は固辞した。「任意の団体だから入る自由もあれば、辞退する自由もある。名球会を目指して野球をやってきたわけではない。ゴールはまだ先だ」。“オレ流”らしい落合の言い分だが、落合の中にある名選手に対する若い頃のトラウマがあったことも入会辞退の要因の一つだった。



 秋田工高から東洋大に進むも先輩の理不尽な振る舞いと練習方針に納得がいかずに退部し、一時はプロボーラーを目指すなど、かなりのまわり道をしてプロ入りのプロ入り。東芝府中からドラフト3位でロッテに入団した時は既に25歳で、それなりに独自の打撃理論、独自の打撃フォームを確立していた。そこへプロ野球界で立派な記録を残したいわゆる“名球会プレーヤー”を中心としたOB諸氏から「あれじゃ打てない」「使えない選手を獲ってきたスカウトは誰だ」などと批判を受けた。人の話も聞かないで、頭から否定するその態度に落合は反感を覚えた。



 まだ1軍で駆け出しだった2年目くらいから「将来、たとえ2000本安打とか打てたとしても、名球会には入らない」と断言。三冠王を獲り、球界を代表する打者になってもその気持ちは変わらなかった。「2000本安打とか200勝とか、数字の設定の意味がよく分からない。もちろんその数字を残した選手は皆素晴らしいが、名球会だけが一流選手ではない」というのが口癖だった。



 落合の名球会入会辞退に眉をひそめたのがヤクルト・野村克也監督だった。「落合という男は何かにつけ悪い前例を残すな。だれのお陰で、好きな野球がやれて、何億も稼げると思っているんだ。プロ野球を創始し、発展させた諸先輩とファンがあってのものだろう。(名球会は)そんな人たちに恩返しをしようという団体なんだ。拒否する理由が分からない」。落合も将来、恩返しを考えていないわけではなかった。「球界への恩返しはプロ野球OB誰でも入会できる、プロ野球OB会を通じてそれ一本に絞りたい」という考えを表明した。



 そんな落合にプロ入りの扉を開いたのは、実は名球会会長の金田正一だった。落合がロッテに入団する前年の78年、ロッテを率いていた金田監督は三宅宅三スカウト部長に「狭い川崎球場に合った選手を取れ。本塁打を打てる選手を探して来い」と要求。しかし、当時不人気のロッテは大物選手に断られ続け、思うように選手に接触できなかった。



 三宅スカウトのメモには落合の名前があった。「足は遅い、守れない、肩も弱い、闘志が表に出ない」。プロ入りどころかリストにも上がらないマイナス要素がズラリと並んだが、メモにはこうも記されていた。「右に打つのがうまい。変化球うちは天才的」。



 「守備、足、肩には目をつぶってくれますね」と確認し、ドラフト指名に踏み切った。落合が入団した時、監督は山内一弘に代わっていたが、その山内が内角球のさばき方を指導。天性の打撃センスに磨きがかかったのは有名な話だ。



 落合以降、メジャーリーガーのイチロー外野手や野茂英雄投手を含め17人が名球会の入会資格を得た。しかし、入会を拒否した選手は1人もいない。





【2009/4/15 スポニチ】

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