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【8月15日】1986年(昭61) 

 【中日4―1阪神】あと1本に迫ってから、たった1日で記録達成となった。

 中日の主砲、大島康徳外野手は阪神19回戦(ナゴヤ)の6回、中西清起投手からシーズン14号の3点本塁打を左翼席上段へと打ち込んだ。1―1の均衡を破る、決勝3点弾ばかりか、この本塁打で大島は通算300号の大台に乗った。

 「打ったのはストレート。それにしてもよく飛んだ。300号か…。長かったなあ。18年かかったしね」と感慨無量の大島。前日14日のヤクルト17回戦(ナゴヤ)で大川章投手から、299号となるシーズン13号ソロを打った後、「次は派手なガッツポーズをする」と番記者の前で宣言したが、いざそのシーンに直面すると、小さく両手を上げた程度の地味なものに。いざ、打ってみると、喜びもあったが、よくぞここまで、という自分でやったことながら尊敬の念がこみ上げてきた。

 「オレも偉いもんだ。今までプロ野球界で18人しか打っていないんでしょ?こりゃ、東大に入るより狭き門だな」と、この日ばかりは自分で自分を褒めちぎった。

 ここまでの打者になるとは、確かに想像できなかった。中学時代はバレーボールの選手で大分選抜の一員。それ以外には釣りが好きな、相撲の強い少年だった。相撲大会に出場中、中津工高の野球部監督がその馬力を見込んでスカウト。グラブとスパイクを半ば強制的にプレゼントされて硬式野球を始めた変わりダネだった。

 高校時代は投手もその打撃のパワーは半端ではなく、68年のドラフトで3位指名で中日に入団した際には、すでに野手として登録することに決まっていた。

 大島を徹底的に鍛え上げたのが、当時の2軍コーチだった、中日の俊足外野手としてならした本多逸郎。「高校時代のバッティングを見たとき、将来4番を打てる素質がある」と判断、入寮した大島に「3年間、酒、タバコ、女禁止。野球のことだけを考えろ」と厳命。ファームでみっちりしごいた。

 開花したのは入団3年目。1軍の水原茂監督から「パンチ力のある選手を上げてくれ」と要請があり、本多は迷わず大島を推薦。1971年(昭46)6月17日、ヤクルト8回戦(ナゴヤ)でプロ初打席に立った大島は石岡康三投手から、いきなりバックスクリーン直撃の2点本塁打を放つ華々しいデビューを飾った。

 以来、積み重ねること300本。その間に、シーズン代打本塁打記録(76年)を樹立し、本塁打王(83年)も獲った。大島が26年の現役生活で放った本塁打は計382本だった。

【2011/8/15 スポニチ】
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