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【9月3日】1977年(昭52) 

 【巨人8-1ヤクルト】午後7時10分6秒。巨人・王貞治一塁手がヤクルト23回戦で後楽園球場の右翼席へ、シーズン40号、通算756号の本塁打を放った。米大リーグ、ハンク・アーロンの持つ755号の世界記録(当時)を超えた瞬間だった。

 カウント2-3。ざわめくスタンド、「勝負しろよ!この卑怯者」の怒鳴り声…。第1打席も四球。逃げたわけではない。ベンチからの敬遠の指示だった。「打ち取るとすれば、得意のシンカーしかない」。ヤクルト・八重樫幸雄捕手はサインを出した。「でも、異常な雰囲気で球が指にかからず抜けてしまった。真ん中やや外。投げた瞬間に“ああ、オレなんだ”ってあきらめた」。対戦8打席目にして初めて王に本塁打を打たれた、鈴木康二朗投手はボールがスタンドインするまでのわずか4秒が「スロービデオを再生しているように長く感じた」と振り返っている。

 航空会社から“勇気ある投手賞”としてサイパン旅行がプレゼントされたが辞退。王にメモリアルアーチを打たれた夜、鈴木はヤクルトの元同僚とともに徹夜で酒を飲んだ。

 帰宅して酔い覚ますつもりで読んだ新聞に王のコメントが載っていた。「巡り合わせなんだろうが、鈴木投手にはシンドイ思いをさせた。申し訳ない」。

 一夜明けた4日はベンチ入りしない“あがり”の日だったが、鈴木は午後3時からのチームの練習に参加した。「これでつぶれるわけにはいかない。王さんに失礼になる」。世界のホームラン王の気遣いが心にしみた。

 この年14勝、翌78年は13勝3敗でヤクルトの球団史上初優勝に貢献。84年、近鉄に移籍後はストッパーとして活躍。2年連続でセーブ王のタイトルを獲得した。

 86年に自由契約。ヤクルト、巨人などが獲得を検討したが見送られた。通算81勝54敗52セーブ。引退後はプロ野球界とは関わらず、印刷会社などに勤務。軟式野球で国体に出場した。

 記念のホームランボールを拾ったのは、当時25歳の埼玉県川口市の会社員。熱烈なジャイアンツファンで8月30日の大洋21回戦から5日連続で後楽園に通っていた。手に入ったチケットはこの3日までとあって“今夜こそ”の横断幕を用意して、ライトスタンドに陣取った。

 記念ボールを手にしていたのはわずか20分。球場係員に呼ばれ、野球体育博物館に所蔵される記念ボールは王のサインボールと交換。王と握手した後、記念品としてグアム旅行、伊東温泉旅行、自転車、巨人軍のタオル50本などがプレゼントされた。当日夜には日本テレビの深夜番組「ウイークエンダー」などにも出演。一躍、時の人となってしまった。

 今では考えずらいことだが、この歴史的瞬間を生中継したテレビ局はどこもなかった。後楽園の試合なら日本テレビの中継がありそうなものだが、この日のナイター中継は午後7時半から。本塁打が飛び出した時刻にはバラエティ番組「そっくりショット」を放映。視聴者からの抗議電話は600本にのぼったという。

 ちなみに翌4日、王はヤクルト24回戦で安田猛投手から延長10回、通算757号となるサヨナラ本塁打を打ち、試合を決めている。そして5日は国民栄誉賞第1号の表彰で朝から首相官邸へ…。756号の“余震”はしばらく続いた。

【2007/9/3 スポニチ】
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