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【12月5日】1997年(平9)
燃え尽きるまで投げたい。それには自分を必要としてくれるチームに移籍しなければ始まらない…。かつての新人王、最多勝左腕はそれだを思っていた。
近鉄から巨人に移籍して3年、阿波野秀幸投手は1試合打者1人しか登板しなかった97年オフにトレードを志願。出身地の横浜に永池恭男内野手との交換で移籍することが決まった。
86年のドラフト1位投手も33歳。「阿波野はもうこれまででは…」という周囲の声もあったが、近鉄入団時に投手コーチだった横浜・権藤博新監督に請われてのトレードだった。「権藤さんが監督なので、言いたい事が言えるので楽です」と、笑顔の移籍となった。近鉄、巨人、そして横浜。ドラフト時に1位指名された3球団すべてに所属するのは、65年(昭40)に始まった制度史上初。最後に「本当は一番好きだった球団」とようやくめぐり会えた。
近鉄のエースとして入団から4年間は連続2ケタ勝利で通算58勝も、91年にボークの判定基準が変わり、武器だったけん制が封じられるとわずか2勝に。生命線ともいえる得意技を失うと投球リズムも壊れ、以後復活することはなかった。
95年、新天地の巨人では専ら中継ぎで登板。翌年、宮本和知、河野博文、川口和久とともに左腕カルテット「レフティーズ」の1人として優勝に貢献したが、近鉄時代の躍動感は失われつつあった。
そして97年、ベテランの域に入った阿波野は新旧交代の波をもろにかぶることになった。岡島秀樹(現レッドソックス)や前年ドラフト2位の小野仁の若手を使うケースが増え、阿波野にチャンスが回ってこなくなった。
直球はまだ145キロを計測し、受けてる捕手は「阿波野さんのボールはまだ生きている。上(1軍)はなぜ使わないのか」と首をひねった。イースタンでは29試合に登板。何度も1軍行きの待機指令が出たが、10月になってようやくテスト登板のような形でマウンドに上がったが、気持ちは切れていた。結局巨人での3年間は未勝利。近鉄の最終年と合わせて4年間0勝となってしまった。
「ベイスターズに骨を埋めよう」。そう誓った阿波野の98年のシーズンは期するものがあった。それでも巨人時代に「自分のすべてを出そうとして逆に失敗した」教訓を生かし、マイペースでキャンプを過ごした。あうんの呼吸の権藤が監督だったのも焦らずに調整できた要因の一つだった。
5月6日、東京ドームでの対巨人5回戦。2点ビハインドの場面で登板した阿波野は9回、進藤達哉三塁手の3号逆転3ランで勝ち投手となった。93年4月14日、千葉マリンスタジアムでのロッテ1回戦以来、1848日ぶりの1勝に「今プロ野球の投手として1軍のマウンドに立ち真剣勝負をしている充実感を感じている」と感慨深げだった。
敗戦処理から始まって、ベイスターズが優勝戦線のトップを走る夏場になると、権藤が確立した中継ぎローテーションの左の柱として投げ続けた。3球団すべてで優勝を飾った。
3度のトレードで得たものは何だったのか。阿波野はインタビューでこう話している。「移籍って、自分が直面しなければ分からないことがたくさんある。経験者として言えるのは、選手の質を上げてくれる可能性を秘めたものだということ。だから卑屈になる必要はない。前向きに、新しい自分を作ったり、良かった時の自分を取り戻す努力をすればいい」(日本プロ野球トレード大鑑、01年ベースボールマガジン社)。
00年に引退、14年間で通算75勝65敗5セーブ。巨人、横浜と現役時代から縁のあるチームで投手コーチを歴任した。果たして指導者として4つ目の所属球団に今後めぐり合うのかどうか。注目だ。
【2007/12/5 スポニチ】
燃え尽きるまで投げたい。それには自分を必要としてくれるチームに移籍しなければ始まらない…。かつての新人王、最多勝左腕はそれだを思っていた。
近鉄から巨人に移籍して3年、阿波野秀幸投手は1試合打者1人しか登板しなかった97年オフにトレードを志願。出身地の横浜に永池恭男内野手との交換で移籍することが決まった。
86年のドラフト1位投手も33歳。「阿波野はもうこれまででは…」という周囲の声もあったが、近鉄入団時に投手コーチだった横浜・権藤博新監督に請われてのトレードだった。「権藤さんが監督なので、言いたい事が言えるので楽です」と、笑顔の移籍となった。近鉄、巨人、そして横浜。ドラフト時に1位指名された3球団すべてに所属するのは、65年(昭40)に始まった制度史上初。最後に「本当は一番好きだった球団」とようやくめぐり会えた。
近鉄のエースとして入団から4年間は連続2ケタ勝利で通算58勝も、91年にボークの判定基準が変わり、武器だったけん制が封じられるとわずか2勝に。生命線ともいえる得意技を失うと投球リズムも壊れ、以後復活することはなかった。
95年、新天地の巨人では専ら中継ぎで登板。翌年、宮本和知、河野博文、川口和久とともに左腕カルテット「レフティーズ」の1人として優勝に貢献したが、近鉄時代の躍動感は失われつつあった。
そして97年、ベテランの域に入った阿波野は新旧交代の波をもろにかぶることになった。岡島秀樹(現レッドソックス)や前年ドラフト2位の小野仁の若手を使うケースが増え、阿波野にチャンスが回ってこなくなった。
直球はまだ145キロを計測し、受けてる捕手は「阿波野さんのボールはまだ生きている。上(1軍)はなぜ使わないのか」と首をひねった。イースタンでは29試合に登板。何度も1軍行きの待機指令が出たが、10月になってようやくテスト登板のような形でマウンドに上がったが、気持ちは切れていた。結局巨人での3年間は未勝利。近鉄の最終年と合わせて4年間0勝となってしまった。
「ベイスターズに骨を埋めよう」。そう誓った阿波野の98年のシーズンは期するものがあった。それでも巨人時代に「自分のすべてを出そうとして逆に失敗した」教訓を生かし、マイペースでキャンプを過ごした。あうんの呼吸の権藤が監督だったのも焦らずに調整できた要因の一つだった。
5月6日、東京ドームでの対巨人5回戦。2点ビハインドの場面で登板した阿波野は9回、進藤達哉三塁手の3号逆転3ランで勝ち投手となった。93年4月14日、千葉マリンスタジアムでのロッテ1回戦以来、1848日ぶりの1勝に「今プロ野球の投手として1軍のマウンドに立ち真剣勝負をしている充実感を感じている」と感慨深げだった。
敗戦処理から始まって、ベイスターズが優勝戦線のトップを走る夏場になると、権藤が確立した中継ぎローテーションの左の柱として投げ続けた。3球団すべてで優勝を飾った。
3度のトレードで得たものは何だったのか。阿波野はインタビューでこう話している。「移籍って、自分が直面しなければ分からないことがたくさんある。経験者として言えるのは、選手の質を上げてくれる可能性を秘めたものだということ。だから卑屈になる必要はない。前向きに、新しい自分を作ったり、良かった時の自分を取り戻す努力をすればいい」(日本プロ野球トレード大鑑、01年ベースボールマガジン社)。
00年に引退、14年間で通算75勝65敗5セーブ。巨人、横浜と現役時代から縁のあるチームで投手コーチを歴任した。果たして指導者として4つ目の所属球団に今後めぐり合うのかどうか。注目だ。
【2007/12/5 スポニチ】
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