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【4月4日】1997年(平9) 

 【ヤクルト6-3巨人】33億円補強した長嶋ジャイアンツに、2000万円で再生した大砲で野村スワローズが完勝した。

 主役は広島を自由契約になったかつての4番打者、小早川毅彦一塁手。5番に入った小早川は2回、巨人先発・斎藤雅樹投手の初球ストレートをとらえ、センターバックスクリーン右に飛び込む先制弾。逆転された4回にはカーブを狙いすましたようにさばき、右翼席中段へ運ぶ同点2号ソロを放った。

 「きょうの小早川さんは何を投げても打たれるような気がした」。96年まで3年連続開幕戦完封勝利の“ミスター開幕”が初めて弱気になった。同点で迎えた6回、斎藤の気持ち知ってか知らずか長嶋茂雄監督は動かない。真っ直ぐもやられた、カーブも完璧に打たれた…。後はシンカーくらいしか残っていない。

 斎藤の顔にそう書いてあった、と言わんばかりの3打席目、小早川はシンカーにバットが反応、今度はライナー性の低い弾道で右翼席前列にもっていった。この3号2ランで勝ち越したヤクルトは先発ブロス投手から4人の投手リレーで逃げ切り、第2次政権5年目にして長嶋監督は初めて黒星スタートとなった。

 「何年ぶりのヒーローインタビューだろう。覚えてないなぁ」。はにかみながら目を潤ませた小早川。87年、法大の先輩である巨人・江川卓投手に引退の引導を渡したとされる、サヨナラ本塁打など広島時代に放った155本の本塁打も「忘れるくらい嬉しい」という3発でお立ち台に上がった。リストラ男が再びスポットライトを浴びた瞬間だった。

 13年間、カープの顔としての自負があった。しかし、95年はわずか8試合でシングルヒット1本。不完全燃焼のまま戦力外通告された。球団からはフロント入りを勧められたが、気持ちは現役続行だった。

 そんな時、ヤクルトの野村克也監督からラブコールがきた。「お前、まだイケるで。金は大して出せんけど、ウチへ来ないか」。年俸は半分以下の2000万円まで減ったが、二つ返事で受けた。そしてこんなことを思った。「今年はやれる」。

 「大学でも1年生から4番を打てた。プロ1年目の84年もすぐに新人王を取れた。新たな門出の年は必ずいいことがある」。データー重視のID野球を標榜する野村監督もそんな小早川のジンクスを知っていた。試合前、指揮官はこう声をかけてルーキーのように緊張しているベテランの気持ちをほぐした。「お前は新たな出発ではいい星があるんやな。肩の力を抜くだけでええぞ」。野村再生工場は技術より、心のケアがミソなのである。開幕戦を取ったヤクルトは、Bクラス候補の前評判を覆し、1度も首位を明け渡すことなく2年ぶりの優勝。日本シリーズでも4勝1敗で西武を一蹴した。小早川の3発がすべての始まりだった。

 一方、打たれた斎藤はこの開幕戦を境に輝きを取り戻すことはできなかった。ショックを引きずった背番号11はこの年、88年以来の6勝止まり。以後、開幕投手に返り咲くことはなかった。長嶋巨人は以後3年間、優勝から遠ざかる大きなポイントとなった開幕戦だった。

【2008/4/4 スポニチ】
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