close
【12月10日】1935年(昭10)

 読売新聞が“職業野球”チーム、大日本東京野球倶楽部(のちの巨人)を結成した1934年(昭9)12月26日からほぼ1年。大阪では阪神電鉄を中心にした大阪野球倶楽部、現在の阪神タイガースが誕生した。阪神電鉄の役員会で球団創立が許可されたのはその4日前。資本金20万円でのスタートだった。

 監督は早稲田OBで愛媛・松山商業のコーチとして、夏の甲子園で優勝に導いた森茂雄に決まった。タイガースという愛称は後に、阪神電鉄社員による投票で命名された。

 チームは設立されたが、“誕生日”までに阪神と契約を済ませていたのは森監督と選手8人。後に名を残した選手としては、“物干し竿”と呼ばれた長いバットを振り回した初代ミスター・タイガースの藤村富美男、初代主将にして第7代監督を務めた松木謙治郎らが入団していたが、8人では野球ができない。実は結成までには野球ができる人数を揃えるはずだったが、了承した大学出の選手が相次いで契約破棄を伝えてきたという想定外の出来事があった。

 「大学中退を反対された」「野球でメシを食うなら親子の縁を切る」など…理由はさまざまだが、時はあたかも戦時下。「野球をやって遊んでお金をもらうなんてけしからん」という風潮があった。

 関西大の西村正夫外野手や北井正雄投手のように契約寸前まできていながら、球団結成に動いていた阪急(現オリックス)に横取りされるという、阪神関係者にしてみれば屈辱的なケースもあった。阪急とは同じ関西でしのぎを削る電鉄のライバル会社。阪神は球団結成を阪急に先に越されまいと、極秘のうちに動き、球団事務所の看板も結成日当日まで掲げなかったほど意識する相手だった。

 阪神球団誕生は2つのルートが1つになって成し遂げられたものだった。1つは読売ルート。巨人軍を結成したものの、プロの対戦相手がいなかった巨人は、35年2月に米国へ遠征。7月に帰国するまで110試合を消化し、さらに帰国後は国内でノンプロ相手に試合をしていた。プロ球団が1つでは職業野球は繁栄しないと考えていた読売新聞の正力松太郎社長は、早急に球団を作るためには、今すぐ使える球場を持つところはないかと探した。すると阪神電鉄が甲子園球場を所有していることに気がつき、阪神側に結成の意向を打診した。

 もう1つのルートは関西大ルートだった。関西大野球部は当時、東京六大学と互角の力を有し、31年と34年に来日した全米選抜チームの実力と技術に感銘を受け「これからはプロの時代」という考えが持ち上がった。そこで関大野球部OBが集まる関大倶楽部の役員が、出資してもらえる企業を探した。前提としてはやはり球場を持っているところだった。

 結局2方向から誘われた阪神電鉄が結成を決意。巨人に対抗するチームを大阪に、という気概もあったが、34年にベーブ・ルース率いる全米選抜チームが来日した際、阪神電鉄は甲子園で2試合興行。1万7000円のギャランティで契約したが、これが7万円の収入を上げる大成功に終わった。「野球はもうかる」という経験は、阪神がプロ野球に進出する際の大きな要因となった。

 8人しかいなかった選手も森監督自ら松山商の後輩、立教大の景浦将外野手らの契約に成功。36年2月11日の球団結成式には18人が集まり、神社で必勝祈願を行った。タイガースはその歩みを球史に刻み始めたのである。


【2008/12/10 スポニチ】
arrow
arrow
    全站熱搜

    ht31sho 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()