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【12月22日】2004年(平16) 

 最多勝、ベストナインの15勝右腕が入るのと入らないのとでは、天と地の差があった。近鉄、オリックスの合併による選手の分配ドラフトでオリックスにプロテクトされていた岩隈久志投手が、かねてからの希望通り新球団・楽天に金銭トレードされることになった。

 「オリックスには行きたくない。新しい球団で再出発する方が魅力を感じる」と楽天熱望を公言していた岩隈。オリックスは元近鉄のエースをチームに迎え入れなくては合併の効果がない。4度の交渉も両者の主張は平行線のままでこのまま越年かとも思われたが、最終的にオリックスが折れた形に。会見に臨んだオリックスの小泉隆司球団社長は「双方譲らず、長期化させるのは球界や岩隈投手の将来に影響が出る。原状回復のため宮内オーナーが承諾した」と苦渋の選択だったことを口にした。

 エースを譲るのだからそれ相応の金額が楽天から支払われるとみられたが、小泉社長いわく「非常にリーズナブルな額」で話がまとまったと明言。具体的金額は明らかにされなかったが、オリックスにとっては金銭的にもあまり得をしない“タダ同然”の額で移籍を容認した。

 岩隈の意志は固かった。「僕は近鉄に育てられた人間。合併球団でやるのは気持ち的に難しい」とし、オリックス・仰木彬監督のラブコール、直接交渉でも態度が変わることはなかった。セ・リーグの球団へトレードに出し、岩隈に匹敵する選手を獲得する方法も考えられた。小池唯夫パ・リーグ会長は“強い要望”として、1年オリックスに在籍し、1年後に希望を受け入れるという折衷案を提案した。しかし、いずれも話だけに終わり、最後まで岩隈は“信念”を貫き通した。

 合併問題で矢面にたった近鉄選手会長の礒部公一外野手、ストッパーの福盛和夫投手らは当初から楽天でのプレーを希望したが、多くの選手が未知の東北の新球団へ行くより、生活環境が大きく変わらない合併球団で現役を続けたい気持ちが強かった。しかし、岩隈はバファローズの名前が残るにしても、これまで敵として相手にしてきたオリックスで投げるのはどうしても気が進まなかった。楽天には岩隈の夫人の父である広橋公寿守備走塁コーチも就任することが決まっていた。

 岩隈が吉報を耳にしたのはくしくも楽天の本拠地に決まった仙台だった。この日地元テレビへの出演のため、家族ともども杜の都を訪れていた。緊急会見では笑顔を見せたが「合併問題に始まり、自分の中でつらい部分があった。長かったです」と言葉を選ぶようにして話した。オリックスに対しては「小泉社長、中村(勝広)GM、仰木監督に感謝の気持ちでいっぱいです」と述べた。

 その岩隈、楽天の記念すべき公式戦第1戦でロッテ相手に歴史的な1勝を挙げたが、1年目は9勝止まり。06年から野村克也監督が就任したが、右肩痛と背筋痛で2年間で計6勝。チームは07年入団の田中将大投手という、新しいエース候補が出現し、岩隈の影も薄くなったが、08年は見事に復活。85年の阪急・佐藤義則投手以来の21勝をマークし、最多勝、防御率1位など投手のタイトルをほぼ独占。楽天は5位に終わったが、岩隈は優勝チームの西武の選手を抑え、MVPを獲得した。Bクラスからの最優秀選手選出は1988年の南海・門田博光外野手以来20年ぶり。平成初の快挙だった。

 09年は元“21勝”投手、指導には定評のある佐藤が投手コーチとして楽天入りした。選手層も他球団とそん色ないチームになってきただけに、岩隈が2年続けて獅子奮迅の活躍をすれば、念願のクライマックスシリーズ進出が見えてくる。

【2008/12/22 スポニチ】
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