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サッカー日本代表の中心選手として活躍し、ドイツW杯まで3大会連続出場したMF中田英寿(29)=ボルトン=が3日、自身の公式ホームページ(HP)で現役引退を発表した。中田は「半年ほど前からこのドイツW杯を最後に約10年間過ごしたプロサッカー界から引退しようと決めていた」と理由を説明した。代表として通算77試合に出場。98年からはイタリア、イングランドのクラブでプレーした。
現在、欧州に滞在中の中田英は「人生とは旅であり、旅とは人生である」と題した長文の文章をHPに掲載して、衝撃的に現役からの引退を表明した。
「何か特別な出来事があったからではない。プロサッカーという旅から卒業し“新たな自分”探しの旅に出たい」と書き記した。それでも理由の一端について「子どものころに持っていたボールに対するみずみずしい感情は失われていった」と明かした。
1995年、Jリーグ平塚(湘南)でプロ生活をスタートした当初から「将来は公認会計士になりたい」と引退後の生活プランを口にしていた。変わった18歳だったが、サッカーが好きだった。そしてその後の11年に及ぶプロ生活ではさまざまな軋轢(あつれき)を経験した。いつしか孤高の男となり、3度目のW杯出場後、あっさりと引退を決断した。
文章のサブタイトルには「~1985年12月1日-2006年6月22日~」とあった。サッカーを始めた8歳の冬から、最後の試合となったW杯1次リーグF組のブラジル戦までの日付を示していた。
W杯敗退が決まったブラジル戦。試合終了後には、ピッチ上で約10分間もあおむけになり、涙を見せた。その涙も、立ち上がれなかったほどの運動量も、半年前から現役引退を決意していたからこそだった。ヒデはドイツで燃え尽きた。
1998年フランス大会からW杯に3大会連続出場した。日本が戦ったW杯10試合にすべて出場したのは中田英ただ1人だ。日本選手で初めて2つの年齢別世界選手権と五輪、W杯のすべてのカテゴリーに出場し、日本サッカーの新しい時代をけん引してきた。
HPではW杯の敗戦を「申し訳ない気持ちでいっぱいだった」とわびた。しかし「おれが伝えたかった何か、それをたくさんの人が理解してくれたんだと(ファンのメールで)知った。プロになってからのおれの姿勢は間違っていなかった」。そのプロ哲学は周囲に理解されず、衝突を生むこともあったが、信念は曲げなかった。29歳という早すぎる引退もまた、中田英らしい決断だった。
【2006/7/4 デイリースポーツ】
現在、欧州に滞在中の中田英は「人生とは旅であり、旅とは人生である」と題した長文の文章をHPに掲載して、衝撃的に現役からの引退を表明した。
「何か特別な出来事があったからではない。プロサッカーという旅から卒業し“新たな自分”探しの旅に出たい」と書き記した。それでも理由の一端について「子どものころに持っていたボールに対するみずみずしい感情は失われていった」と明かした。
1995年、Jリーグ平塚(湘南)でプロ生活をスタートした当初から「将来は公認会計士になりたい」と引退後の生活プランを口にしていた。変わった18歳だったが、サッカーが好きだった。そしてその後の11年に及ぶプロ生活ではさまざまな軋轢(あつれき)を経験した。いつしか孤高の男となり、3度目のW杯出場後、あっさりと引退を決断した。
文章のサブタイトルには「~1985年12月1日-2006年6月22日~」とあった。サッカーを始めた8歳の冬から、最後の試合となったW杯1次リーグF組のブラジル戦までの日付を示していた。
W杯敗退が決まったブラジル戦。試合終了後には、ピッチ上で約10分間もあおむけになり、涙を見せた。その涙も、立ち上がれなかったほどの運動量も、半年前から現役引退を決意していたからこそだった。ヒデはドイツで燃え尽きた。
1998年フランス大会からW杯に3大会連続出場した。日本が戦ったW杯10試合にすべて出場したのは中田英ただ1人だ。日本選手で初めて2つの年齢別世界選手権と五輪、W杯のすべてのカテゴリーに出場し、日本サッカーの新しい時代をけん引してきた。
HPではW杯の敗戦を「申し訳ない気持ちでいっぱいだった」とわびた。しかし「おれが伝えたかった何か、それをたくさんの人が理解してくれたんだと(ファンのメールで)知った。プロになってからのおれの姿勢は間違っていなかった」。そのプロ哲学は周囲に理解されず、衝突を生むこともあったが、信念は曲げなかった。29歳という早すぎる引退もまた、中田英らしい決断だった。
【2006/7/4 デイリースポーツ】
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