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【1月3日】1945年(昭20)

 戦前から戦後にかけて、職業野球(プロ野球)は「正月大会」と称して、新年恒例のオープン戦を行っていた。野球選手の新年会のようなもので、試合前、時には試合中も祝い酒が振舞われ、半ばほろ酔い加減でゲームをして、ファンを楽しませていた。

 しかし、この年はとてもそんな雰囲気ではなかった。45年といえば太平洋戦争末期、8月に敗戦を迎える8カ月前。戦況は日を追うごとに悪化、フィリピンは陥落寸前、本土も軍需工場などを中心に空襲に見舞われ、日本軍は特攻作戦で戦局の挽回を図ろうとしていた時期だった。

 そんな非常時でも元旦から5日まで正月大会は甲子園と西宮で開催された。参加したのは阪神、阪急(現オリックス)、産業(現中日)、朝日(松竹の前身、松竹は大洋=現横浜と合併し消滅)の4球団。 阪神がようやく9人そろっている程度で、他の3球団はチームの体をなしていなかったため、阪神・産業の連合軍を「猛虎軍」、阪急・朝日のそれを「隼軍」として結成し、非公式戦(オープン戦)として行うことになった。

 当時、軍や憲兵隊の許可なしに野球の試合が行うのはまず不可能だったと推測できるが、戦況悪化の中でどのような手順を踏んで試合開始に至ったのか。戦意高揚、慰問…などの名目は考えられるが、もしかしたら無許可だったのか。詳細は分かっていない。

 戦前のプロ野球は44年9月に連合チームによる「日本野球総進軍野球大会」をもって一切の公式戦を終了。11月には日本職業野球連盟から改名した日本野球報国会の活動が停止し、プロ野球の火はここで一度消えた。各球団の選手も次々と出征し、解散前は1チーム15人前後の「選士」(戦時中、戦士になぞらえて選手のことをこう呼んだ)しかおらず、活動停止後は9人そろわないところが続出。日本ではもうプロ野球は見られないはずだった中で、正月大会を企画したのは、阪神だった。237勝を挙げた往年の名投手・若林忠志の証言によると、後にタイガースのエースとなった村山実投手の入団に尽力した、阪神電鉄の田中義一常務が働きかけたという。

 阪神電鉄史や若林の証言などを突き合わせると、阪神はこの時点で9人の選手が大阪にいた。阪神電鉄は当時、海軍の局地戦闘機「紫電改」などを製作していた川西飛行機武庫川工場の経営にかかわっており、選手はそこに勤労動員されていた。前線へは行かず後方勤務だったことが幸いし、正月休みと夜勤前の時間を利用して野球ができる環境にあった。次に多かったのが阪急と朝日で7人の選手が在阪。産業は4人で計27人が正月大会に出場した。

 参加メンバーをみると阪神からは若林をはじめ、“物干し竿”と呼ばれた長いバットで戦後、初代ミスタータイガースといわれた藤村富美男投手兼内野手、阪神監督を務めた金田正泰外野手、阪急では有名な野口4兄弟の長男で、プロ野球は初のランニング本塁打を打ち、中日監督もした野口明投手兼内野手が出場。産業には日本ハム監督だった大沢啓二の兄の大沢紀三男外野手、朝日ではプロ野球初の1000試合出場選手となった坪内道則外野手が参加。坪内は寺の住職だった弟が兵隊にとられたため、代わりに寺を守っていたため戦場に駆り出されず、野球ができた。この試合を最後に戦後野球界に復帰しなかった選手も数人おり、消息さえ分からないケースもある。

 元日は甲子園で、2日は西宮でと交互に行い5日まで1日2試合の計10試合を計画したが、連盟が活動を停止しており、公式記録は残っていない。当時の様子を客観的に知る手立ては阪神ファンだった大阪大学医学部の学生による自己流のスコアブックのみ。それによると猛虎軍が7勝1敗で大きく勝ち越している。

 残り2試合はどうなったのか。実は1月3日、甲子園での第1試合の5回裏、猛虎の攻撃二死のところで、突然「空襲警報」が発令されたため、試合はノーゲームになっている。連盟と軍との取り決めで30分を過ぎても警報が解除されない場合、試合は中止というルールがあり、この試合もそれにならった。2試合目も中止になり、そのため8試合の結果しか残っていないのである。

 この日、日本本土に空襲はなかったが、関西方面には偵察のB29が数機飛来したという記録が残されている。

 8試合の観衆は計約9000人。テレビはなく、ラジオ、新聞でも一切告知しなかったにもかかわらず、この人数を集めたのは、口コミだった。

 これで本当に“職業野球”はピリオドを打った。野球が再びできるようになったのは、正月大会から11カ月後の11月23日、神宮球場での東西対抗まで待たなければならなかった。


【2008/1/3 スポニチ】
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