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【9月18日】1968年(昭43) 

 【巨人10-2阪神】阪神・江夏豊投手が日本新記録となシーズン354奪三振を巨人・王貞治一塁手からマークした、前日の興奮冷めやらぬ甲子園球場は、3連戦の第3ラウンドを迎えても一触即発の雰囲気だった。

 そのエネルギーが沸点に達した。22回戦の4回表、巨人は4点を奪いなお二死二塁で打者は3番・王。バックの守乱で失点を重ねた、マウンド上のジーン・バッキー投手は心中穏やかではなかった。1球目は王の頭上に、2球目は腰を「く」の字にして避けるほど内角へ厳しいボールがきた。1回の第1打席で死球を受けていた上に、ムッとするボールが立て続けに来たことで、王も頭に血が上った。左手にバットを持ったまま、ツカツカとマウンドのバッキーに詰め寄った。

 「バッキー、どうした?近すぎるじゃないか。気をつけてくれよ」と王。「キャッチャーが内側に構えたからそこへ投げた。わざとじゃない」とバッキー。王も納得したその直後のことだった。三塁側ベンチに座っていた巨人の控え選手数人と荒川博打撃コーチが飛び出し、バッキーに襲いかかった。バッキーの右足を蹴る荒川コーチに、元来気短な助っ人投手が右ストレートで応戦。その後は両軍入り乱れての取っ組み合い。興奮したファンまでもがグラウンドに乱入し“加勢”に来た。

 流血した顔面にあてた白いタオルが真っ赤に染まった荒川コーチ。右手を押さえるバッキーの顔は苦悶の表情。荒川はかけていたメガネが割れるなどして4針縫う大けが、バッキーも右手親指を骨折し、シーズン中の登板が不可能になった。2人とも退場処分になり、翌日の警察に事情聴取に対し双方とも「先に手を出したのはアイツだ!」と主張するばかり。約20分の中断後に再開されたが、この話はこれで終わらない。

 バッキーに代わり、ベテラン左腕の権藤正利投手がリリーフに立った。カウント0-2から王に2球投げ、1-3に。バッキーにまず詰め寄ったのは王だったにもかかわらず、退場処分にならなかったことに阪神ファンは納得いかず「王退場、王退場」を連呼する中での権藤の3球目はカーブがすっぽ抜けた。次の瞬間、4万を超える大観衆が目にしたものは、右側頭部に投球が直撃し、左打席で倒れたまま動かない王と顔面蒼白のまま立ちつくす権藤の姿だった。

 もう誰も止められない。両軍ナインは今度はホームベース付近でつかみ合いになった。ようやく静まったのは、王が担架に乗せられ“退場”したころから。流血と乱闘の首位攻防戦に観客も興奮し、スタンドでは互いのファン同士の小競り合いも頻発するありさま。野球どころの雰囲気ではなくなっていた。

 今なら危険球退場の権藤だが、当時はルール化されておらず、そのまま続投。異様な空気が漂う中で、4番・長嶋茂雄三塁手が打席に入った。

 「腹の中は怒りで煮えくり返っていた。だけど、乱闘に加わることが怒りをぶつけることじゃない。野球の中で、ゲームの中でそれは晴らすべき。あの時のオレは燃えていた」。カウント2-2からの5球目、長嶋のバットが一閃すると、打球は左翼席に飛び込む35号3点本塁打。江夏、村山実両投手に2試合続けて完封負けを喫した巨人は、2位阪神にわずか5厘差に迫られていたが、この一撃で息を吹き返した。同時に異常な雰囲気の試合でグラウンドは乱闘の場ではなく、野球で決着をつける場ということを本塁打で示した価値ある一発だった。

 病院に運ばれた王だが、幸い耳鳴り程度の軽症で21日の中日21回戦から復帰。その日に通算350号となるシーズン43号を含む2本塁打を放ち、健在ぶりをアピール。奇しくも同日、初めての子供となる長女が誕生した。

 阪神はあと一歩で優勝に迫りながらも13勝を挙げていたバッキーの戦線離脱が響き、最終的には5ゲーム差をつけられ2位。ここで巨人のV4を阻んでおけば、その後のプロ野球史は大きく変わったかもしれない、思えばその分岐点になる一戦だった。

 通算100勝を挙げたバッキーのこれが阪神での最後の登板となった。複雑骨折の影響を重くみた阪神は翌年バッキーをリリース。近鉄に移ったが0勝7敗で解雇。失意のうち米国へ帰国し、日本で稼いだ金で農場経営をし、その傍ら小学校で教鞭を取る第2の人生を歩むことになった。

【2008/9/18 スポニチ】
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