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【10月24日】1990年(平2) 

 【西武7-3巨人】1カ月前は言われるままだったが、2度目は無意識だった。日本シリーズ第4戦、9回表二死。4点リードの西武・森祇晶監督が幕引きを託したルーキー・潮崎哲也投手は、得意のシンカーで巨人・駒田徳広一塁手をピッチャーゴロに仕留めた。

 余裕は十分あった。一塁へ送球する前に右腕でガッツポーズを作り、ゆっくり清原和博一塁手へ転送。試合終了を確認すると、今度は両手バンザイをした後にマウンド上で子どものようにピョンピョン跳ねた。2年ぶりに西武が日本一の座を奪回、しかも過去幾多の死闘を演じてきた巨人相手に4勝無敗のストレート勝ち。シリーズ史上引き分けなしの4戦全勝Vは60年(昭35)の大洋以来、実に35年ぶりのことだった。

 「この1球で終わるんだ、と思うと背筋が寒くなった。きょうは自然とガッツポーズが出た」と潮崎。9月23日、リーグ制覇を決めた日本ハム23回戦(西武)も最後の瞬間にマウンドにいたのは背番号16のルーキーだった。投球前、マウンドに歩み寄った清原が言った。「もう(優勝した時の)ポーズ決めたんか?」。そんなこと新人投手が考えているわけがない。首を横に振ると、清原がこう注文を付けた。「両手広げて待っとけや」。

 よく分からないまま、とにかく最後の瞬間は“清原の教え”を忠実に守った。1メートル86、91キロの巨体が猛突進してくる。それを体中で受け止めた。「これが優勝ってやつか…」なんて思いながら、歓喜の輪の中で宙に舞う森監督の姿を見ていた。

 わずか1カ月前のことだが、今では懐かしい。2度目は自らウイニングボールを処理し、“絵になるポーズ”まで決めた。日本一の喜びは、リーグ優勝の比ではないことも肌で感じていた。

 シリーズMVPは4試合すべてで打点を挙げ、3戦勝利打点の頼れる助っ人オレステス・デストラーデだったが、森監督は「陰のMVPは潮崎」と評した。本来なら西武の守護神は、巨人から移籍した鹿取義隆投手。“胴上げ投手”になってしかるべきだが、シーズン、シリーズともこの栄誉を与えられたのは、潮崎だった。もっともリーグ優勝の際の最後の1人は、鹿取が登板するはずだったが、潮崎が併殺打に打ち取ってしまい、計画が流れてしまった。

 「鹿取さんに申し訳なくて…」と恐縮していたが、森監督は“胴上げ投手”を称え「チーム最多登板(43試合7勝4敗8S)をやってくれた。そのご褒美だよ」と日本シリーズの最後も投げさせた。

 リーグV、日本一の両方の瞬間にマウンドにいた新人投手は75年、阪急の豪速球右腕としてならした山口高志投手以来、15年ぶり2人目。山口も潮崎と同じノンプロの松下電器(現パナソニック)出身。タイプはまるで違うが、山口は力でねじ伏せるようなストレートを武器に、潮崎は伝家の宝刀シンカーで相手を翻弄するという、互いに決め球を持っていた。

 潮崎はシリーズ1勝1S。第2戦で初登板初勝利を挙げたが、ライオンズOBの鉄腕・稲尾和久投手でもなし得なかった、シリーズ史上3人目、パ・リーグ投手としては初の快挙だった。第4戦も先発郭泰源投手の後を受け7回から登板。三塁を踏ませずセーブが付いた。

 白星、セーブをマークしたことも嬉しかったが、それ以上に感激したのが、郷土のスーパースターと同じ土俵で勝負したことだった。徳島県出身の潮崎が中学生だったころ、甲子園で活躍していたのが池田高の水野雄仁投手。巨人の背番号31だった。第4戦に2番手として登板した水野と自分が同じ試合で投げていることに話題が及ぶと「夢みたい。いやぁ、感動しました」と満面の笑みになった。

 野茂英雄投手、古田敦也捕手らとともに88年のソウル五輪に出場し、銀メダル獲得に貢献。西武と相思相愛で入団したが、キャンプ時の筋トレでひ弱さを指摘され、童顔の風貌と相まってついたあだ名が「おぼっちゃま」。しかし、気の強さは天下一品で、西武投手陣の全体の底上げのための勉強会で、小山正明投手コーチに、シンカーの握りを公開するよう求められた際に「同じチーム内でもライバル。メシの種は教えられない」と突っぱねた。

 04年まで現役を続け、523試合82勝55敗55セーブ。引退後は西武編成部、07年から同2軍投手コーチだが、本人は超がつくほどのアマ野球好きで将来的にはスカウト志望という。

【2008/10/24 スポニチ】
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