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【8月25日】1962年(昭37) 

 【西鉄4-1大毎】6月にオープンしたばかりの東京・千住の東京スタジアムで、プロ7年目の鉄腕・稲尾和久投手は大毎(現ロッテ)のミサイル打線に真っ向勝負を挑んでいた。

 あと1勝で通算200勝(史上9人目)、そしてシーズン10連勝となる一戦。「気合いが入ったね。絶対最後まで投げきってやると思ってね」と稲尾。その誓い通り、9安打を浴びながら1失点、110球で完投勝利を収めた。7年で200勝到達は野口二郎投手(阪急)の8年より1年早いプロ野球新記録だった。

 稲尾のワンマンショーナイターだった。4回、無死満塁のピンチを招き、打者は“安打製造機”榎本喜八一塁手。鉄腕が一番苦手とする左バッターを迎え、稲尾は初球から伝家の宝刀スライダーを投げた。右打者のシュートのように、左打者の内角へ食い込むボールに榎本は反応した。が、チャンスで珍しく力んだ榎本のタイミングがずれ、三塁へのファウルフライに。難関を突破すると、続く2人を捕邪飛、中飛に打ち取ると稲尾は意気揚々とマウンドから引き揚げた。

 6回にはその榎本に同じスライダーを右翼席に放り込まれて1点を失ったが、1点リードで迎えた8回に稲尾は自らのバットで倍返しした。

 無死三塁の場面で打順が回ってきた稲尾は、ここまで投げ合ってきた大毎・菅原紀元投手の4球目を強振すると、打球は左翼席上段へと一直線に吸い込まれていった。試合を決定付ける1号2点本塁打で、リードを3点とすると、9回は簡単に3者凡退で終わらせ、完投で200個目の白星を手中に収めた。

 「今年はツキがない。200勝には届かんわい」。オールスター前で9勝13敗。前年日本記録タイのシーズン42勝をマークした同一人物とは思えないほど、勝ち星に恵まれなかった稲尾は口癖のようにそう嘆いていた。かつて中西太三塁手を筆頭に“野武士打線”ともいわれた西鉄だったが、この年は打棒振るわず、稲尾も好投しながら勝てない日々が続いた。

 打線だけではなく、稲尾自身にも問題があった。実は入団以来の酷使の影響が出だし、肘痛に悩まされていた。先発で好投していても、試合の後半になり疲れてくると、痛みが出て腕が下がった。球威がなくなったところを痛打されて黒星を喫した。

 この痛みが不思議と和らいだのが夏場だった。稲尾いわく「特製の湿布薬が効いた」としているが、気温が上がってきたことで筋肉が柔らかくなり、これが痛みの緩和につながった。8月の10連勝は、その賜物だった。

 「次の目標もできた」と稲尾。7年連続の20勝と、大毎・小野正一投手が持つ月間最多勝記録の11勝がそれだった。200勝達成から4日後の8月29日、西宮での阪急24回戦に先発し、勝ち投手になると2つ目の目標もクリア。1カ月前、1ケタしか勝っていなかった投手が、20勝までたどり着き、最多勝まで狙える位置にきた。結局25勝(18敗)で、最多勝は28勝をした近鉄・久保征弘投手にもっていかれたが、鉄腕の凄さを改めて感じたシーズンだった。

 しかし、稲尾の肘はこの時すでに限界に近づいていた。翌63年、28勝した稲尾の先発、リリーフでの獅子奮迅の活躍で西鉄は5年ぶりにリーグ優勝したが、完全に右肘はいかれてしまい、以後はだましだましの投球が続いた。現役14年で前半の7年に206勝しながら、後半の7年は70勝に終わった。 黒い霧事件の余波で現役引退、監督業専念を余儀なくされた稲尾は、志半ばでユニホームを脱いだ。往年の速球は投げられなかったが、頭脳的な投球術で背番号と同じ残り24勝だった通算300勝を「果たす自信があった」と後に語った口調は寂しげだった。


【2009/8/25 スポニチ】

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