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 【アーリントン=塚沢健太郎】ついに3000本安打が飛び出した。マリナーズのイチロー外野手は29日、レンジャーズ戦に1番右翼で出場し、1回の第1打席、初球を狙い打ち、左前安打を放って、日米通算安打数を3000本とした。日本で1278本、メジャーで1722本。イチローは34歳、プロ17年目、2175試合目で偉業を達成した。



 3000本目の安打が遊撃の頭を越え、左中間へ落ちた。先発のメンドーサ(今季2勝4敗)が投じた初球、92マイル(147キロ)の外の直球を逆らわずに流し打ち。大記録が達成された。



 敵地にもかかわらず場内のビジョンには「イチローはパシフィックリーグとメジャーリーグで3000本安打を達成」と紹介された。一塁ベース上のイチローは、初めはヘルメットのひさしを触っただけだったが、拍手が大きくなると、やや表情を緩め、ヘルメットを取って歓声に応えた。後続の右前安打で三塁へ快走、2001年に同僚だったバスケス三塁手から握手を求められ、笑顔をのぞかせた。



 日本で3000本安打は張本勲氏(3085本)1人だけ。メジャーでも27人しかいない快挙だ。試合数でもタイ・カッブ(メジャー2位の4191安打)の2135試合に次ぐスピード記録。イチローは34歳281日で、これもタイ・カッブの34歳231日に及ばなかったが、ほとんどの選手は40歳前後での達成で、ズバ抜けて早い。



 今年の自主トレでは球宴前(7月13日)までの達成を目標に掲げたが、春先から3割を超えることはなく、思わぬ苦戦を強いられた。7月に入り調子を上げてきたものの、残り7本としてから8試合で34打数6安打。無安打が3試合と急ブレーキがかかった。次の目標とした7月24日までの本拠地での実現もならず。



 「じらした方が気持ちよかったりするでしょ」と余裕をみせていたこともあったが、球宴前最終戦から11戦遅れのアーリントンでの達成となった。



 イチローには3年周期説がある。3年ごとに大爆発がやってくるが、翌年は反動からか、大スランプがきてしまう。



 メジャー1年目の2001年は打率.350、242安打でMVPと新人王をW受賞。ところが、翌02年は208安打と何とか200安打をマーク。04年にはメジャー記録の262安打を達成も、翌05年は最も苦しみ206安打の.303とギリギリで3割をクリアした。



 昨年はメジャーで2番目に高い.350を残したが、今年は再び3年に1度の不調の波がやってきてしまった。それだけに、ここで3000本安打という大きな区切りがあったことは、ウィリー・キーラー以来史上2人目の8年連続200安打を目指すイチローにとって、大きなマイナスだったといっていい。



 次の目標はあと70安打の200安打。あと55試合で到達しなければいけないのだから、ペースを上げていかないと厳しい。そして、その先には張本勲氏の持つ日本記録3085安打の更新がある。



 イチローがファンの「目指せ3000本」のプラカードに「4000と書いてほしいよね」と要望したように、今のペースなら4000安打も十分可能。メジャー記録はピート・ローズの4256安打。2位のタイ・カッブと、4000安打以上は2人しかいない。



 いったいイチローはどこまで安打数を積み上げることができるのか。3000本安打という呪縛から解かれたイチローのバットに、1打席ごとに注目が集まる。





【MLB】「イチローは自ら進化」日米通算3000本安打の笑み



 前人未到の日米通算3000本安打を達成したシアトルマリナーズ・イチロー外野手(34)を、感慨深い目で見守った男がいる。才能を開花させる前の「鈴木一朗」を知るオリックス・ブルーウェーブ(当時)の元打撃コーチ、小川亨氏(62)だ。デビュー時の「弱点」から天才の片鱗を見せた「頑固さ」まで、最強の安打製造機が完成するまでの隠れたエピソードを夕刊フジに明かした。



 「時間の問題でしたけど、『おめでとう』といいたいですね。まぁ、彼の場合は、まだまだ身体は動きますから、4000本を目指してもらいたいですね」。偉業の達成に小川氏は、こう祝福した。



 さらに、「日本で苦手としていた内角を完全に克服したことが大記録につながった。彼は『小川さんに教わった』とも言わないやろうし、私も彼に『教えた』とは言わない。彼なりに進化していった結果でしょ」とも話した。



 小川氏は1968年から84年まで近鉄で左の中距離砲として活躍。通算1908試合出場の球団記録を打ち立てた往年の名選手だ。



 イチローとの出会いは93年、打撃コーチとして招かれたオリックスだった。



 「土井正三監督(当時)から『左打者でいい若手がたくさんいる。彼らを指導してほしい』と請われたのがきっかけだった」



 イチローは91年、愛工大名電高を卒業後、ドラフト4位でオリックスに入団した。翌年7月11日に1軍デビュー。40試合に出場し、打率2割5分3厘を残した。93年から指導にあたった小川氏だったが、そのスイングを見て、ある致命的な弱点に気付いた。



 「テイクバックで左肘が背中のほうに入って、内角が打てない打ち方になっとった。『その打ち方では絶対打てない』と告げ、『やるか、やらないかはお前の自由だ』と言ったんやが」



 だが、イチローは小川氏の助言にも持論を曲げず、自らの打法を貫いた。



 「とにかく言うことを聞かない子やった。当時から自分なりの理屈がちゃんとあった」。結局、その年は打率1割8分8厘と低迷し、2軍に沈んだ。



 「親父(チチロー氏)も言うとった。『小川さんの言うことはわかるが、あいつは頑固だから聞かないでしょう』と」



 自分の殻に閉じこもり自滅する選手は山ほどいる。ただ、イチローは違った。



 「その年のウインターリーグから変わった。私のアドバイスを聞いたのかは知りませんが、指摘した弱点を克服して帰ってきた」



 その後、故仰木彬監督のもと「振り子打法」を武器に首位打者を獲得。大記録への一歩を歩み始めた。



 「『個』が最高のプレーを見せれば、チームが勝つと考えるのが米国の野球ならば、チームのため時には『個』を犠牲にさせられる日本よりも、彼は光る」



 現在は中学生硬式野球チーム「大阪狭山リトルシニア野球協会」の監督を務める小川氏。「第2のイチローは?」との問いには、「そんな子はいません。せやけど、今は野球の楽しさを教えてあげるんが楽しくてしゃあない」と笑った。



【2008/7/30 ZAKZAK】
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