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【5月22日】1975年(昭50) 

 【南海5-3日本ハム】制球の定まらない外国人左腕投手が相手の時は、あれこれ考えずにストレートだけを待つ。その読みどおりカウント0-2からの3球目はストライクを取りにきた真ん中高めの直球だった。

 バット一閃。打球は左翼スタンド中段に気持ちよく飛んでいった。南海・野村克也捕手兼任監督は後楽園での日本ハム8回戦の5回、テレンス・レイ投手からシーズン9号となる逆転3点本塁打を放った。これが通算600号のメモリアルアーチ。王手をかけてから11試合48打席を要した。

 よほど嬉しかったのか、本塁打を打ってもいつも淡々としている野村だったが、満面の笑みでベースを1周し、両足でジャンプをしてホームイン。その後にヘルメットを脱いで、スタンドに向かって両手を挙げた。テレ屋の野村にとっては、最大級のファンサービスだった。

 「まずは監督として6連敗を阻止できたのが何より」。試合終了後、監督・野村としてコメントを最初に口にした。ようやくバッティングの話に移ると、完ぺきな当たりに舌は滑らかだった。「狙いどおりのバッティングができた。きのうはケチくさい当たりだったが、今度は文句なしやな」。21日の日本ハム戦で左翼へ大飛球を打ち上げながら、千藤三樹男左翼手にフェンス際で好捕されたことを引き合いに、この日の会心の当たりを振り返った。

 5月13日のロッテ戦で日本球界初の2500本安打を記録したばかりの野村は、10日足らずで次の大記録を打ち立てたことになるが、600号は巨人・王貞治一塁手に次いで2番目の到達だった。350号本塁打から550号まで常にプロ野球初という冠が付いての記録達成だったが、今度は2番目だったことについての感想を報道陣から問われると、野村は有名なあの言葉を口にした。

 「花の中にはヒマワリもあれば、人目につかないところでひっそりと咲く月見草というのもある。王や長嶋はヒマワリ、オレは月見草。自己満足かもしれないが、オレはそれでいいと思っている。人気のないパ・リーグの少ないお客さんの中でも一生懸命やってきた意地が、600号につながった。華々しい場所で野球をやる王、長嶋の存在があったからこそ、オレはここまでやれた」。

 契約金なし、月給7000円で始まったプロ野球人生。4年後に巨人入りした長嶋は契約金だけで1800万円もあった。ブルペン捕手扱いの野村がゴールデンルーキーとは違う道を通って、球界屈指のバットマンになったのは誇りでもあった。

 「記録なんて所詮自己満足や。見てくれる人が見てくれればええ」とこだわりのないことを強調したが、これは野村流のテレ隠し。「また野球選手になったら、同じ野村克也でいたいか?」との報道陣の問いには「今度は左打者になりたいな。だって記録を残すのは有利だもん。左の方が」と真顔で答えた。最後は「今年は不思議なくらい調子がええ。この分だとあと1、2年はできそうや」とし、「700号本塁打と3000本安打を目指したい」と結んだ。

 あと1カ月で40歳になる時点で、野村は次の大台の到達を半ば確信していた。しかし、2年後に南海監督を解任されてから一兵卒となったロッテ、西武での野村は野球をやっているのがとても苦しそうだった。体力的なこともあったが、これまで自分が経験してきた野球の知識が十分生かせる立場にいなかったためであろう。

 80年引退した時、700号にはあと43本、3000本安打にはあと99本届かなかった。いずれも通算2位の記録。月見草と野村は言うが、数字だけ見れば堂々大輪の花を咲かせたヒマワリである。


【2009/5/22 スポニチ】
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